BIS 国際決済銀行
2012年5月19日コメント (5)「BIS 国際決済銀行の戦争責任」
Gian Trepp著 Rotpunktverlag社 出版
原題 Bankgeschafte mit dem Feind - Die Bank fur Internationalen Zahlungsausgleich im Zweiten Weltkrieg Von Hitlers Europabank zum Instrument des Marshallplans
「中央銀行の銀行」と呼ばれる国際決済銀行(BIS)の創立から第二次世界大戦後までをたどり、ナチスとの金塊取引を行うに至った経過を綴る歴史書。当時、総裁であったマキットリクの遺稿をもとにまとめたもので、BISを知る上で参考になる貴重な資料でもある。
<BISの存亡の危機>
BISは、第一次世界大戦で敗れたドイツの戦争賠償金支払いのための国際決済機関として1930年、ドイツとフランスの二国と国境を接するスイス北部にあるバーゼル市に設立された。創立以来現在に至るまでBISは、いくどかその存在の意味を問われ、存亡の危機に立たされた。
最初の危機は、創立して2年後の1932年に訪れた。ドイツではナチス党が権力を拡張し、ワイマール共和国は対外的信頼を落として行く。ドイツの金融界に対する信用も低下し、戦勝国はドイツに対する賠償金の請求を断念。もともと、戦争賠償金の決済のために創設されたBISは、その存在理由を失ってしまう。しかし、ナチスドイツが台頭し権力を強めてゆく第二次世界大戦前夜、英国の親ドイツ派の後押しを受け、解体の危機を免れたのだった。
ドイツがポーランドに電撃的に侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。当時のBIS総裁は、米国人のマキットリクだった。米国が参戦するまでは、BISの「中立性」は保たれていたものの、参戦により総裁は微妙な立場に立たされることになる。米国財務省は、戦場で敵対する各国の中央銀行が、「肩を並べて」仕事をするBISを疑問視していた。こうした動きに対してBISは、敵対する国々の金融取引の仲介を引続き行えるようにするため1939年、「中立性保持の四原則」を作成。二度目の存亡の危機を「中立」を盾にして乗り切ったのである。
Gian Trepp著 Rotpunktverlag社 出版
原題 Bankgeschafte mit dem Feind - Die Bank fur Internationalen Zahlungsausgleich im Zweiten Weltkrieg Von Hitlers Europabank zum Instrument des Marshallplans
「中央銀行の銀行」と呼ばれる国際決済銀行(BIS)の創立から第二次世界大戦後までをたどり、ナチスとの金塊取引を行うに至った経過を綴る歴史書。当時、総裁であったマキットリクの遺稿をもとにまとめたもので、BISを知る上で参考になる貴重な資料でもある。
<BISの存亡の危機>
BISは、第一次世界大戦で敗れたドイツの戦争賠償金支払いのための国際決済機関として1930年、ドイツとフランスの二国と国境を接するスイス北部にあるバーゼル市に設立された。創立以来現在に至るまでBISは、いくどかその存在の意味を問われ、存亡の危機に立たされた。
最初の危機は、創立して2年後の1932年に訪れた。ドイツではナチス党が権力を拡張し、ワイマール共和国は対外的信頼を落として行く。ドイツの金融界に対する信用も低下し、戦勝国はドイツに対する賠償金の請求を断念。もともと、戦争賠償金の決済のために創設されたBISは、その存在理由を失ってしまう。しかし、ナチスドイツが台頭し権力を強めてゆく第二次世界大戦前夜、英国の親ドイツ派の後押しを受け、解体の危機を免れたのだった。
ドイツがポーランドに電撃的に侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。当時のBIS総裁は、米国人のマキットリクだった。米国が参戦するまでは、BISの「中立性」は保たれていたものの、参戦により総裁は微妙な立場に立たされることになる。米国財務省は、戦場で敵対する各国の中央銀行が、「肩を並べて」仕事をするBISを疑問視していた。こうした動きに対してBISは、敵対する国々の金融取引の仲介を引続き行えるようにするため1939年、「中立性保持の四原則」を作成。二度目の存亡の危機を「中立」を盾にして乗り切ったのである。
コメント
1933年、ドイツは国際連盟から脱退する。対外政治の場所を失ったドイツはその後、BISを外交の場として利用するようになった。第二次世界大戦前半、着々と領地を拡大し続けるドイツにとって、軍事資金の運用は重要な課題であった。戦中、ヨーロッパ諸国間の金融取引は、金と中立国スイスの通貨であるスイスフランが唯一の決算手段として使われていたためドイツは、征服した国々から金を略奪し軍事資金とするのである。略奪された金が、スイス国立銀行(SNB)にあるBIS名義の口座に送り込まれるようになる。BISやSNBにとっても、ドイツとの金取引は魅力があり、取引は盛んに行われた。戦場では敵味方に分かれて戦っているにもかかわらず、各国の中銀代表たちは、BISがドイツとの取引を続けることを容認し続けたのだった。
戦況がドイツに不利になってゆくにつれ、自ずと金の取引も減少する。終戦間近になると、戦況で優位に立つ米国が戦争終結後に問題視する可能性のある取引の隠滅行為もあった。厳しい米国の追求を前に、BISもSNBも新たな取引には慎重になっていった。
<BISの延命>
戦後、米国が中心となって作られたブレトン・ウッズ協定より、BISは再び存亡の危機に立たされた。国際通貨基金(IMF)の加盟国は、平行してBISに席を置くことはできないという加盟条件があったからである。しかし、BISの仇敵であった米財務省内の権力交代を機に、情勢は一変する。米国の対ソ連牽制政策を意図したマーシャル・プランの執行機関として、BISに白羽の矢が立った。欧州各国の通貨問題について広範な知識を蓄えていたのは当時、唯一、BISだった。BISの蓄積したノウハウとは、実は40年代初めにドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)から学んだ「多国間決済システム」そのものであった。
世界ユダヤ人会議(World Jewish Congress)は1995年、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺行為(ホロコースト)における犠牲者の遺族や、生き残った人々に対する慰謝料の請求キャンペーンを開始した。スイスの銀行に資産を預けたものの、その後ホロコーストの犠牲となり、銀行側からは「所有者行方不明」と処理された口座について、スイス銀行協会に対し調査するようにとの要求である。スイスでは、10年間連絡が途絶えた場合、その口座は「所有者不明」となる。このため、大戦以前もしくは大戦中に開設された銀行口座で、1945年以降連絡が途絶えた口座の預金は、引き出されることもなく、いままでそっくりそのまま銀行の運営資金となっていたのである。世界ユダヤ人会議は終戦直後から、47年、56年、62年と4回にわたりスイスに同様の調査依頼をしている。スイス政府はそのたびに銀行に対し、「所有者不明」の口座の詳細を明かすよう要請したが、銀行の対応はユダヤ人側にとって満足ゆくものではなかった。
スイス国立銀行(SNB)は1985年になって、39年から45年までのドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)との金取引の詳細を公表したが、民間銀行は公文書を公表することはなかった。銀行の守秘義務を理由に、一連のバッシングが終結した現在に至っても、民間銀行の態度は頑なである。
1996年に入ると、米上院がスイス特別大使や民間銀行の代表者に対するヒアリングや、スイスにダメージを与えるような当時の公文書を公開するなど、徹底した追及が始まった。「所有者不明」の口座預金の公開を拒む民間銀行に対する批判が、ナチスドイツが占領地から略奪した金をSNBと民間銀行が「ロンダリング(洗浄)」したという批判に、さらには、永世中立国スイスの対ユダヤ人難民政策の追求へと拡大していった。
同年秋には、英国外務省が「戦中のスイスの姿」を調査し、これを報告。米国政府も同じような調査を始めた。ニューヨークでは、エド・フェイガン弁護士をはじめとする弁護士団が、20万人のホロコーストの生き残り者や遺族たちを集め、「連帯訴訟」を起こした。
一連のスイス金融界への非難の中で、象徴的存在になったのが、一警備員のクリストフ・マイリである。UBS銀行の夜間警備をしていたマイリは、同銀行のナチスとの取引の証拠となる書類がシュレッダーで永遠に葬り去られる寸前のところを発見し、チューリヒのユダヤ人団体にこれを届けた。以後、マイリ警備員とその家族は、「スイスの敵」として国内から多くの脅迫状を送りつけられることとなり、一家で米国へ亡命する。
「マイリ事件」後、間もなくしてスイス金融界は、3億スイスフランのホロコースト基金を設立し、被害者の慰謝料の支払いを決める。一方スイス政府は、SNBの所有する金500トンを売却し、その売却資金で、現在戦争、紛争、自然災害の被害者を援助する「連帯基金」の設立案を発表した。
1997年5月に発表された米国の調査報告書は、当時のスイスの銀行について、ナチスの略奪金を預かり、軍事金を用立てた「ヒトラーの銀行」と断言している。報告に追従するかのように米国の連帯訴訟弁護団は、スイスの銀行のボイコットを呼びかけ、ニューヨーク市もUBS銀行との取引を全面停止とした。同時期、BISは戦時中の金取引の詳細をまとめ、公文書を一般に公開した。
1998年夏、スイスの銀行は世界ユダヤ人会議および連帯訴訟弁護団との交渉に公式に応じた。銀行側が12億5000万ドルの賠償金を支払うことで、今後一切この問題を取り上げないことを条件に両者は合意する。支払いが完了するとユダヤ人団体は、ドイツ、オーストリア、オランダそして日本に対する強制労働補償問題を取り上げるようになってゆく。
1947年、チューリヒ生まれ。チューリヒ州立大学経済学部を卒業以後、フリーのジャーナリストとして活躍している。革新派の新聞「WOZ」や体制反対派の民間ラジオ局「ロラ」の創始者メンバー。
著作として「銀行の最高峰 125年のUBS」、「デリバティブそのリスク」、「スイスコネクション」、「マネーロンダリングとデリバティブ取引」などがある。
国際決済銀行(BIS)史を研究する歴史家が少ない中、同書は、長年の独自調査をもとに1992年に出版された。BISを尋ねても公文書館には入れて貰えなかった当時の苦労を著者は、「窓にはレースの掛かった黒塗りの高級車が、バーゼルの街に繰り出すのをただ見送るような毎日が続いた」と語っている。困難な中で綴られた本ではあるが、BISが1997年にその資料を公開した際、公文書館の責任者は、同書の内容は極めて正確であると太鼓判を押した。
スイス政府が出資し創設した「ベルジエー歴史専門委員会」は、ドイツの略奪金とスイスの銀行に関する報告および為替取引の報告で、同書をいく箇所にもわたって引用している。著者によれば、「スイスでは、第二次世界大戦中のスイス史を研究することはタブーであり、こうした研究の蓄積がほとんどなかった」。このため、1996年の米国からのホロコースト犠牲者に対する賠償金請求と徹底的な追求を前に、スイス政府も銀行も、的確な対応ができなかった。
スイスの戦争責任の追求が一段落した現在の著者は、スイス金融界の将来の危機を訴えている。銀行が銀行機密のみに立脚したいまの繁栄に安住すれば、今後、スイスの繊維産業や時計産業のように衰退の道しか残されていないと指摘し、銀行機密の問題を取り上げた著作に力を入れている。
リンク
ジャン・トレップのサイト 第二次世界大戦中のヨーロッパ経済史 スイス金融界のグローバル化
http
://www.treppresearch.com
経済史のサイト 経済史研究に役立つ
http
://www.businesshistory.de
銀行のサイト
スイス国立銀行
http
://www.snb.ch/
国際決済銀行 BIS
http
://www.bis.org/
スイスの闇は迷宮かもしれません。
担当 佐藤 夕美 チューリヒ発
http
://www.olff.net/swissinfo/BIZ.htm
因みに、サイト主の佐藤夕美氏は既に故人です。(ご冥福をお祈りいたします)