ベトナム戦争時の韓国軍の戦争犯罪 非戦闘員の大量虐殺
2013年12月17日コメント (3)
従軍慰安婦など歴史問題を盾に執拗な反日政策を展開する韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領。
だが、実は、自国の“負の遺産”についてはダンマリを決め込んでいる。
1960〜70年代のベトナム戦争で、凄惨を極めた韓国軍による大量虐殺や性ビジネス。
自国のこととなると知らぬ存ぜぬ一点張りの朴氏。その理解し難き精神構造と身も凍る残虐行為の実態とは−。
今年2月の就任以降、日本に「過去を直視せよ」と迫り、安倍晋三首相との会談を拒み続ける朴氏。
日本の戦争責任を厳しく追及しているが、韓国軍が犯したベトナム戦争での蛮行に目を向けると、
「過去を…」という言葉をそのまま返したくなる。その残虐さは、近代戦争史のなかでも群を抜き、突出しているからだ。
米国の要求に応えて、韓国がベトナム戦争に参戦したのは64年。朴氏の父親である朴正煕政権(当時)が、
世論の反対を押さえて決断した。以降73年までに、米軍以外では最大規模の延べ30万人以上を派兵。
「青龍部隊」「猛虎部隊」「白馬部隊」という先鋭部隊が、激戦区のベトナム中部の海岸地帯に送り込まれ、“拠点防衛”を任されたという。
インドシナでの取材経験が豊富な戦争ジャーナリスト、井川一久氏(79)は“拠点防衛”の実態をこう話す。
「いわゆる『農村無人化作戦』。最初は敵を探し出し、集中的に攻撃する作戦だったが、
なかなか降参しないベトナムの武装ゲリラを掃討するため、民間人が住む農村部を攻撃することにした。
事前通告して村から離れないものはすべて敵とみなして殺害する。米軍と規模こそ異なるが、韓国軍の手口は残虐さを極めた」
井川氏が取材した海岸地帯のフーカイン省トイホア県では、9つの村落で計約900人が虐殺されたとされる。
韓国軍による民間人の虐殺被害者数の全容は不明だが、韓国の雑誌によれば、少なくとも9000人以上との情報がある。
「兵士である男は村にいないので、実際に殺害されたのは女性と子供、そして、老人ばかり。防空壕に逃げ込んだ村民を引っ張りだして片っ端から射殺したり、手榴弾を投げつけたりした。
生き残った村民からは『韓国軍は事前通告をしなかった』という証言も得た」(井川氏)
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20131216/frn1312161810008-n1.htm
>>2
残虐方式にはパターンがあり、「子供たちの頭や首を切り落とし、手足を切断して、火に投げ込む」
「妊婦の腹から胎児が飛び出すまで軍靴で踏みつける」など、筆舌に尽くしがたい生存者の証言内容が、韓国の雑誌などで報告されている。
韓国軍による慰安婦問題もベトナム戦争の傷跡として重く残る。
井川氏は「韓国軍や韓国の民間人は、村を追われて戦争難民であったベトナム人女性を『売春婦』に仕立てた。
これは事実上の強制連行といえる」と強調。当時、南ベトナムの至る所に韓国人経営の性的慰安施設があり、戦闘地には軍人専用のものがあったという。
「ある韓国軍副司令官の家に呼ばれた際に、10代のベトナム人女性が出てきて『今夜はお宅に連れていっていいですよ』と言われて非常に驚いた。
まさに占領国意識の塊だった。韓国人男性とベトナム人女性の混血児『ライダイハン』は1万5000人いるといわれるが、セックス・ビジネスと無関係ではない」こうした負の遺産は、韓国国内で長い間、封印されてきたが、90年代後半から韓国の市民団体などが調査、報道して顕在化した。
韓国政府はいまだ正式に調査を行っていないものの、2001年に金大中大統領(当時)がベトナム訪問の際に
「不本意ながらもベトナム国民に苦痛を与えたことを申し訳なく思う」と謝罪した。
これに対し、「金大統領の歴史認識を憂慮せざるを得ない。参戦勇士の名誉を傷つけるものだ」とかみついたのが当時、
野党でハンナラ党副総裁だった朴氏。今年9月のベトナム訪問でも朴氏は一切、謝罪をしていない。
「朴氏の発想の原点は『国軍の名誉』というところにある。要は、事実には目をつむるということ。
自分の国の悪いことは一切言わないが、同じようなことが日本にあると攻撃する。
大統領からマスコミ、国民までみんな同じ思考で、朴氏は韓国を映し出す鏡といえる」
本紙の連載などをまとめた『呆韓論』の著者でジャーナリストの室谷克実氏はこう語り、朴氏が抱える矛盾を指摘する。
「事実をねじ曲げて『慰安婦は性奴隷』と日本を批判している韓国人は、ベトナム戦争を体験した世代。
自分たちがやったことは、日本もやったはずだと思い込んでいる」
ファンタジー思考は治らない。
コメント
1966年1月23日−2月26日にかけて韓国陸軍首都機械化歩兵師団(英語版)(猛虎部隊)は南ベトナムビンディン省タイソン県(ベトナム語版)タイヴィン村の15集落の村民1,200人を虐殺した[1]。2月26日には同部隊は併行してビンアン村の住民380人を虐殺した(ゴダイの虐殺)[1]。
1966年2月、ベトナムビンディン省に駐屯していた大韓民国陸軍首都師団(通称猛虎部隊)(en)は早朝にタイビン村(Th?i B?nh /太平)を訪れ、住民68名を1ヶ所に集めると銃撃を加えるとともに手榴弾を投げつけて婦女子を含む65名を殺害した[1]。生存者はわずか3名であった[1]。
タイビン村では虐殺された犠牲者名を記した慰霊碑と事件を記録した壁画が設けられ、生存者が虐殺の証言を行っている[1]。2008年現在のベトナムでは韓国軍によって少なくとも9000名が虐殺されたとも[1]、あるいは、30万人を超すベトナム人が虐殺されたとも言われている[2]。
韓国政府は、ベトナムでの虐殺や強姦など、自国の過去の蛮行を公式に認めようとしていない。韓国兵の行為には韓国のメディアも人権活動家も目を向けなかった。その根底には、韓国人の、ベトナム人に対する人種差別意識が原因との見方もある
1968年2月12日[7]、フォンニィ・フォンニャット村を訪れた韓国海兵隊第2海兵師団(青龍部隊)第1大隊は婦女子を集めると至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った。ところが、その日のうちにアメリカ海兵隊員4名、南ベトナム兵26名からなる部隊が現場に到着してしまった[8]。アメリカ・ベトナム兵は生存者へ手当を施し、病院へ搬送した[8][2]。また、J・ボーン伍長によって事件現場の撮影が行われた[8]。事件後に生き残った村人たちは犠牲者の遺体を国道1号線に並べて抗議の意思を示した。
当時のフォンニィ・フォンニャット村はアメリカ海兵隊と友好関係にあり、村の男たちはアメリカと同盟関係にある南ベトナム軍(en)に参加していた[9]。続く2月25日には韓国海兵隊によってハミの虐殺(en)が引き起こされ、ハミ村の婦女子・老人135名が虐殺された[10]事件を受けてアメリカ陸軍参謀総長ウィリアム・ウェストモーランド大将が韓国軍に調査報告を繰り返し求め続けたため[11]、韓国軍は韓国海兵隊の軍服を着たベトコンによる陰謀であったとアメリカ軍に報告した[11]。フォンニィ・フォンニャットの虐殺当時の韓国では韓国政府が行った聞慶虐殺事件、保導連盟事件では共産主義者に罪を着せることで虐殺事件を闇に葬りさることに成功している。
アメリカ軍内部では韓国軍を完全な後方部隊とするかベトコンが完全に支配していて誰を殺しても問題とされない地域に配置転換するべきであるとした検討が行われた[17]。韓国兵は残忍なやり方で女をレイプしてから殺すケースが多く、アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女にとって恐怖の的だった[18]。また妊婦や子供は井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだ。生き残った村人はバラバラになった遺体を井戸から引き上げ、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った[18]。 1969年2月には事件の遺族達によって南ベトナム議会に賠償を求める請願書が提出されている[8]。 2000年には蔡命新将軍は数々の事件について、我々は誰にも償いをする必要はないと述べている[14]。
2013年8月、クォン・キヒョン大韓民国国防部スポークスマンはグローバル・ポスト(en)に対して、「韓国軍が組織的に民間人虐殺を行うことは不可能」「ベトナム女性への性的搾取はない」と、ベトナム戦争当時の韓国軍によるベトナム人虐殺・女性凌辱を否定した[19]。