http://m.ameba.jp/m/blogArticle.do?unm=koramu&articleId=10037915940

平成13年に昭和史研究所会報が、「ザ・レイプ・オブ・ヨコハマ」という記事を9回にわたり掲載している。この一部を紹介する。
この記事は外務省外局の終戦連絡委員会横浜事務局に臨時タイピストとして勤務した北林余志子氏が投稿されたものである。
昭和20年9月3日米軍は横須賀に上陸し、横浜に進軍してきた。その日から米軍による不法行為についての訴えが次々と出されてきた。
次の例は乗用車の略奪である。36年型ビュイックを持ち出されようとされた被害者が一筆書いて欲しいと要求したのに対し、「アメリカ軍の高級将校が公用で乗り回すために、アメリカ政府が使用するものなり。一体この戦争に勝ったのはお前か、俺様か。どっちだと思っているんだい?この自動車はファックする娘を探し廻る為に使うし、又お前達にどんな災難が降りかかろうと、おいらの知ったこっちゃない。と言うことを証明するものなり。G・I・ジョファ。アメリカ戦勝軍17部隊。1945年9月19日」と書き残した。
このように略奪された乗用車は二ヶ月間で32台に及んだ。この数は当時の状態を考えると、横浜中にすべての自家用乗用車は持って行かれたと見るべきでしょう。 当時の横浜は焼け野原で焼け材木に焼けトタンで作ったバラックがぽつりぽつり建っていて、夜になると真っ暗であった。
白昼ピストルで脅迫され、腕時計や財布を強奪されたり、屋内に侵入して金庫を破られ、財産全部を強奪されたりの例は枚挙のいとまないくらいであった。
 白 人黒 人合 計
殺     人 4 0 4
強     姦 21 8 29
傷 害  殴 打 40 0 40
金 銭  強 奪 208 27 235
時計、その他 520 32 552
自   動   車 32 0 32
警官サーベル 53 0 53
そ  の  他 12 0 12
合      計 890 67 957
この表は米軍が厚木と横須賀に進駐後10月末までの約2ヶ月間に横浜の警察に届けられたものである。一日15件以上である。著者の北林氏は一日約20件としているが、本格的な進駐は9月中旬以降だったのであろうか。
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2014年6月21日12:11

次に、強奪された金額は303,388円に達する。昭和20年の大学卒公務員の初任給は約70円、今日約20万円とすれば、約3000倍になるので、当時の30万円は9億円に達する。これが約2ヶ月、横浜だけで強奪されたのである。上陸したのは横浜だけではない。佐世保、呉等へも上陸している。
北林氏によると、「婦女子の陵辱事件は当時届出を嫌う風潮があり、殆どの犠牲者は泣き寝入りであった。犠牲者はこの数十倍に達するであろう」としている。そして3回目から8回目に掛け、婦女子の陵辱事件のすさまじさ、しつこさを書いている。
インターネットで米軍の犯罪を検索すると、川島高峰氏の「被占領意識」という記事を見つけた。この論文はGHQに没収された『敗戦時全国治安情報 第二巻』1945年9月8日、神奈川県知事「大東亜戦争終結に伴う民心の動向に関する件」よりとして下記のことを書いている。
それによると8月30日から9月5日にかけて総計821件の事件・事故が報告されていた。(僅か一週間の間である)
その内訳を見ると最も多いのが武器剥奪の480件であり、その殆ど全てが警察官からの、小銃、拳銃等の強取であった。次いで、物品強取143件、自動車強取103件となる。
警官の武器強取が一番多いのは、警官と軍人の区別がつかず、これを武装解除したためと、スーベニア漁りのためである。また、市民に対する危害と異なり、警官に対する事件・事故は殆ど全て報告されたと見るべきであろう。
これに対して最も心配された暴力行為は強姦が4件(内未遂2件)、殺人1件、人員拉致4件(内女性2件)、傷害3件、暴行4件であった。中には「米兵4人に連行され、約30名の米兵に輪姦させられましたが、斯る行為が敗戦の結果に来るものなら、日本婦人全部は原子爆弾にて最後を遂げた方が寧ろ幸福だろう」(娼妓)という強烈な証言も見られる。
こうした事件はその性格上、届け出られることが少なく、実数はこれをはるかに上回ったものと思われる。新聞も当初はこの種の米兵による市民への暴力事件を報じていたが、これら連合軍の犯罪は、連合軍の指示により完全に秘匿された。

Missing in the field
2014年6月21日12:13

連合軍の犯罪に対する補償は、昭和21年から日本政府が代行することになったが、最初の内はPR不足か、連合軍を怖れてか、届出が少ない。これが急増したのは、講和条約締結後である。昭和21年から、28年までの8年間に死亡見舞金4339件、障害見舞金1584件、療養見舞金4075件、合計9998件支払われているので、年間平均100件以上あったことになる。このうち27年、28年の2年間に支払われたのは、5844件である。これは21年まで遡っての申請を認めたためであるが、これより遥かに多い犯罪があったことを窺わせる。
更にこの見舞金には強姦事件は対象になっていない。(鶴見俊輔『日本の百年 第一巻 新しい開国』「廃墟の中から」筑摩書房)

連合軍による性犯罪の多発を心配した日本政府は、敗戦3日後の8月18日には「外国駐屯慰安施設等整備要項」とする指令を内務省から各都道府県に出していた。当時これを担当した大蔵省主税局長・池田勇人は予算捻出に際し、「これだけの金で日本婦女子の貞操が守られるならば安い」と融資を快諾したという。かくして、東京では警視庁の音頭とりで8月26日、特殊慰安施設協会(略称、RAA)が設立された。最初の慰安施設「小町園」は8月28日、東京大森に開かれた。(インターネット、川島高峰「被占領意識」)
当時の米軍相手の慰安施設
9月28日には都衛生課が総司令部軍医総監に呼び出され、花柳街の割り振りが行われた。何処が将校用、何処が白人用、何処が黒人用等である。当初黒人用に割り当てられた場所では女も泣いて嫌がったが、数日すると黒人兵大歓迎となった。これは黒人にとって見れば、日本人も白い方にはいるので、彼らがサービスに努めたからだと言う。同時に都知事の責任で検診を厳重にするよう指示された。その時、ペニシリン等新薬が大量に支給された。
ところがこの事がアメリカで報道されると、兵士の母親や家庭で大問題となった。「我々の子弟が、そんないかがわしい特飲街に行くのは怪しからん」というわけである。困った総司令部は特飲街を立ち入り禁止にした。26年3月末らしい。(今日・5月6日の産経新聞・昭和史研究所には4月頃掲載)。

Missing in the field
2014年6月21日12:17

それと共にパンパンガールがあちこちに発生してきた。パンパンは性病検診を受けていないので性病が蔓延した。困った進駐軍は憲兵隊を動員し、日本の警察も協力し、パンパンの一斉検挙を実施し、病院に連れ込み検診した。このとばっちりを受け、素人女性もとっつかまり、無理矢理検診されると言う悲劇もあった。(『昭和史研究所会報59号』「パンパンが発生した頃」)。
パンパンの性病罹患率は当初60%位だったが、27年くらいになると10〜15%位まで下がった。この原因は私は薬の発達によるものと思う。ペニシリンが発明されたのは戦争中である。これをきっかけに各種抗生物質が次々と発明され、多くの伝染病が克服された。
ペニシリンが発明される前の性病の怖ろしさは、今の若い人には分からない。頭に来ると廃人になり、死亡にいたる病であった。だから日本軍は性病管理、兵の性犯罪防止のため、慰安婦を連れて歩いたのである。アメリカ軍のこの状況を見ても、アメリカには日本を非難する資格はない。

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