日銀と大蔵省の「たすきがけ人事」で、大蔵省出身の日銀総裁が力を発揮できなかったのは、金利政策はともかくとして、通貨供給量の設定と制御については、まったく蚊帳の外に置かれてしまったからです。本当の意味で景気を左右するのは通貨供給量であって、これにタッチできないとすれば、日銀総裁としての仕事はできないのです。
それでは、それは誰がやっていたのでしょうか。それは日銀生え抜きの副総裁と営業局長が、「窓口指導」というシステムでやっていたのです。「窓口指導」は、昨日のEJで述べましたが、日銀総裁──大蔵省出身の総裁の場合は副総裁が融資総額の伸び率を決定し、それから副総裁と営業局長と2人で増加分を各銀行に融資割り当てをして配分することです。具体的には新木や一万田がプリンスとして選んだ腹心の佐々木直、前川春雄、三重野康の3人がやっていたのです。
米レーガン政権が1983年に「日米円ドル委員会」の設置を要求してきたときの日銀総裁は、前川春雄だったのです。米国はこれによって、日本の金融資本市場の開放と自由化および金利の自由化を求めてきたのです。時の中曽根首相は、こうした米国の要求にどのように対処すべきかを1984年12月末に日銀総裁を退任していた前川春雄にまとめさせたのです。そのときの日銀総裁は、大蔵省出身の澄田智なのですが、中曽根首相は前任者の前川に報告書を作らせたのです。1985年4月のことです。そのとき日銀としては、いわゆる1940年体制による戦後経済体制が限界にきていることを認識しており、この米国からのガイアツを利用して、日本を構造改革するときであるとして、前川は報告書をまとめたのです。これが「前川レポート」です。
具体的にどのようにするかというと、通貨供給量を制御して意図的にバブルを起こし、それを一挙に潰すというもので、10年で構造改革を成し遂げる計画になっていたのです。実際にそれをやったのは、三重野康なのです。三重野は、澄田総裁時代の副総裁と自身が総裁時代の10年間で、その計画を実行に移したのです。そして、日本を今までの量的拡大から質的改善、すなわち生産性の向上で構造改革を実施し国際マーケットに生き残ろうという計画です。つまり、日本に長期デフレをもたらしたのは、他ならぬ日銀なのです。そのため、このデフレによる景気後退を「日銀不況」と呼ぶのです。
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それでは、それは誰がやっていたのでしょうか。それは日銀生え抜きの副総裁と営業局長が、「窓口指導」というシステムでやっていたのです。「窓口指導」は、昨日のEJで述べましたが、日銀総裁──大蔵省出身の総裁の場合は副総裁が融資総額の伸び率を決定し、それから副総裁と営業局長と2人で増加分を各銀行に融資割り当てをして配分することです。具体的には新木や一万田がプリンスとして選んだ腹心の佐々木直、前川春雄、三重野康の3人がやっていたのです。
米レーガン政権が1983年に「日米円ドル委員会」の設置を要求してきたときの日銀総裁は、前川春雄だったのです。米国はこれによって、日本の金融資本市場の開放と自由化および金利の自由化を求めてきたのです。時の中曽根首相は、こうした米国の要求にどのように対処すべきかを1984年12月末に日銀総裁を退任していた前川春雄にまとめさせたのです。そのときの日銀総裁は、大蔵省出身の澄田智なのですが、中曽根首相は前任者の前川に報告書を作らせたのです。1985年4月のことです。そのとき日銀としては、いわゆる1940年体制による戦後経済体制が限界にきていることを認識しており、この米国からのガイアツを利用して、日本を構造改革するときであるとして、前川は報告書をまとめたのです。これが「前川レポート」です。
具体的にどのようにするかというと、通貨供給量を制御して意図的にバブルを起こし、それを一挙に潰すというもので、10年で構造改革を成し遂げる計画になっていたのです。実際にそれをやったのは、三重野康なのです。三重野は、澄田総裁時代の副総裁と自身が総裁時代の10年間で、その計画を実行に移したのです。そして、日本を今までの量的拡大から質的改善、すなわち生産性の向上で構造改革を実施し国際マーケットに生き残ろうという計画です。つまり、日本に長期デフレをもたらしたのは、他ならぬ日銀なのです。そのため、このデフレによる景気後退を「日銀不況」と呼ぶのです。
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