ベトナム戦争当時、サイゴン(現ホーチミン市)に韓国軍の慰安所が存在したことが、アメリカの公文書によって初めて明らかになった。
日韓間に横たわる慰安婦問題に新たな視点を供する歴史的資料を発見したのは、
TBSワシントン支局長の山口敬之氏。山口支局長は2013年9月から、約1年をかけて米国立公文書記録管理局のベトナム戦争に関する膨大な資料を調査。
その中から、サイゴンの米軍司令部が、同じくサイゴンの韓国軍最高司令官・蔡命新(チェ・ミュンシン)将軍に送った「書簡」を発見した。
同書簡は1969年に書かれたもので、主題は韓国兵が関与した経済事件。
その中で、同事件の舞台となったサイゴン市中心部の「The Turkish Bath」(トルコ風呂)について、以下のように記されていた。
「この施設は、韓国軍による、韓国兵専用の慰安所(Welfare Center)である」
(The Turkish Bath was a Republic of Korea Army Welfare Center for the sole benefit of Korean Troops.)
?山口支局長が語る。
「韓国側はこれまで、日本軍の慰安所について国際社会で厳しく糾弾し続けてきました。
ベトナム戦争当時、韓国軍の慰安所がサイゴンに存在した事がアメリカの公文書によって明らかになった今、韓国側がこの問題にどう対処していくのかが注目されます」

http://shukan.bunshun.jp/articles/-/4952


高度な政治手法はこんな感じになるからね。
今まで叫んだ朝鮮人達にまとも帰って来たブーメランだから(笑)

慰安所まで作ったのは韓国軍隊の蛮行が後々【ハーグを舞台とした晒し首】になる事を恐れたアメリカ政府内の思惑が有ったはずです。
しかし韓国軍隊は村々を襲撃して蛮行を繰り返した(遺伝的能欠陥の成せる業)。
確かに日本軍も慰安所を設けて【現地人と暴力的性交渉を予防する目的と#性病の蔓延を防ぐ目的で#】慰安所の女郎方の性病検査を徹底していたんだよ。(性病になったら戦力にならないからね)

こんな目的の違いは世界的には常識なんです。
ところが日本政府は後手後手の対応で謝罪までしてしまった。(確かに慰安所で女郎方を酷使したかも知れないけど、対価はそれ相応)

コメントへ続く

コメント

Missing in the field
2015年3月26日18:09

ウィキから
近現代史において主要各国の軍隊は公認の(Official)売春宿を指定あるいは設置し、公娼制を前提として活用したとされる。これを軍用売春宿と呼ぶことがある。日本軍が活用した軍用売春宿の呼称が「(陸・海)軍慰安所」である。フランスの場合軍用売春宿計画を「キャンディボックス(la boite a bonbons)」などと婉曲表現した。韓国で発生した国連軍・米軍のための軍用売春宿は「基地村(Camp Town Kijichon)」と呼ばれ、そこで働く女性は「洋公主(Western princess Yanggongju)」「UN マダム( UN madam)」などと表現されていたが正式名称は慰安婦( Wianbu )であった。

日本では古くより遊郭での娼婦を遊女、女郎、花魁などと呼び、19世紀後半の日本では国外への出稼ぎ娼婦をからゆきさんまた娘子軍とも呼んだ。芸娼妓解放令(1872年)や、朝鮮での「娼妓類似営業の取締」(1881年)、娼妓取締規則(1900年)等では「芸娼妓・娼妓」と呼んだ。1909年、清での日本租借地関東州において日本人女性に対しては娼妓家業を認めず、芸妓・酌婦は黙認したため、関東州・満州では「酌婦]
」と呼ばれた。また1932年、1938年の上海でも「酌婦」が使われている。1932年4月1日の上海派遣軍の軍娯楽場取締規則では、慰安所は「軍娯楽場」、従業員は「接客婦」と表記されている。 1937年には「稼業婦女」、軍慰安所従業婦等募集に関する件では「従業婦」ともよばれた。売春を「醜業」と呼ぶ事もあり、1904年の国際条約、醜業を行わしむるための婦女売買取締に関する国際協定では「醜業」と表され、1938年の支那渡航婦女の取扱に関する件では「醜業婦(醜業を目的とする婦女)」と表記された。1939年1月17日の第11軍軍医部長会議指示では「特殊慰安婦」、1939年11月14日の在中支森川部隊特殊慰安業務に関する規定で「慰安婦」が使用。秦郁彦によれば「慰安婦」という語そのものは逐次広まったものであり、一方で公式用語として定着したわけではなかったと指摘している。

続く

Missing in the field
2015年3月26日18:28

公娼制下の日本では「芸妓、酌婦、娼妓」の三つに区分したり、1940年頃の中国に渡航する慰安所関係の公文書でも「芸娼妓、女給仲居、女中、酌婦、芸妓」と一括されるなどしており、「慰安婦」の範囲基準は明らかではないが、慰安所に入ったあとに慰安婦と呼びかえられたともいわれる。俗語ではそのほか、戦地の軍人は慰安婦を「ピー」、慰安所を「ピー屋」(prostitute 娼婦の頭文字)とも呼んだ。

終戦後のソ連軍による強姦や暴行に対して、娘を守るために自ら「慰安婦人会」、また「戦勝国民化」した朝鮮人が行った強姦や暴行への対策としても同様に「慰安隊」が海州市で結成されたという証言もある。

辞書、事典の記載 [編集]1955年の広辞苑初版では慰安婦を「戦地の部隊に随行、将兵を慰安した女」と解説している。1970年代以降になって「従軍慰安婦」問題が社会問題となり、日韓の外交問題にまで発展すると、広辞苑4版(1991年)以後で「従軍慰安婦」項目が登場し、「日中戦争・太平洋戦争期、日本軍将兵の性的慰安のために従軍させられた女性」と記載された。さらに、第5版(1998年) では「日中戦争、太平洋戦争期、日本軍によって将兵の性の対象となる事を強いられた女性。多くは強制連行された朝鮮人女性。」と記述され、この記載に対して谷沢永一と渡部昇一らが、史実と異なる記述であり、イデオロギーにもとづく記述は辞書に値しないと批判した。

と、こんな政治的介入を受けてます。

慰安所慰安婦 要するに政府が軍の行いを黙認し制圧した地域の治安目的が一つ目。
軍が女郎屋を開いて兵隊の捌け口を設けて戦意高揚に繋げたのが二つ目。そこに有った慰安婦が実は職業売春を生業としたプロ集団だったのが三つ目。
太平洋戦争の後に直ぐ始まった南北朝鮮戦争の折りにも慰安所慰安婦が集められ作られたのが四つ目。

今回のサイゴン慰安所は現地人への蛮行を繰り返す韓国軍隊を慰安する目的だったが韓国軍隊の暴走が止まらなかった事が五つ目。


何よりもベトナム戦争がもたらした狂気を厳粛に受け止め【ベトナム人達が内に溜め込んだまま60以上も我慢している事】が六つ目。
だよ。

あの蛮行はハーグで裁かれる事が相応しいだろう、世の中に戦争の狂気を伝えて行く表題ですかね…

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